「した」を「できた」と言いかえてみると、そこに喜びが生まれてきます。それは、できなかったかもしれないということに、ふと気づくからでしょう。
私が金光教国際センターで御用をしていた時、東日本大震災がありました。日本語が話せない海外研修生が来ていました。部屋の安全装置が起動して、彼女はガスが使えず、入浴できないでいました。建物全体のガスが止まっているのだと思って、電子レンジで水を温めて髪を洗い、体を拭いていたそうです。数日後にようやく原因がわかった時、「かわいそうなことをしたね」と言った私に、彼女は「神様が、入浴できることの有難さと、被災した人たちの大変さを教えてくださったのだと思います」と言いました。
普段の生活の中で、当たり前にしていることが、実は様々な人や物の働きと、かけがえのない巡り合わせによって「できている」のです。もちろん、それを支えてくださっているのは神様の働き。そこに目が開いていくと、「当たり前」が「ありがたい」に変わってきます。そうなれば、味気ない生活が、喜びの生活に変わっていくことでしょう。